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cphmn700

太宰治

高校の時に太宰治を読んで暗くて虚無的な自分を演出していた。今考えると痛い。

それから太宰のことを気にかけずに30年ほど経った今、本を読み返してみると、割と「それ、わかるわー」ってことが多い。

「ヴィヨンの妻」

いつもツケで飲んでいる居酒屋から売上金を盗んだ夫。その妻が白痴かもしれない子供を世話しつつ、どう思って暮らしているかを描いたもの。


昔のテレビドラマにも、このような駄目亭主の話がいっぱいあったように思う。

そんな悲惨な状況を見るのは嫌だった。


今、自分が結婚していて妻と子供がいたとしたら、この本に出てくる主人公とほとんど同じようになっていたのではないか。と、そんな戦慄に襲われる。


世間からはどうしようもない男とみられているが、自分の中ではそういうことをわかった上で、自分ではどうしようもないこと、どうしてもその場を面白くするために道化てみせるけれど、自分は死ぬような気持ちでいること、それすら別の視点からあざ笑っている自分を描く、どうしようもない地獄の日々(それは他人には理解されないことなのだが)を描く、この短編集のやるせなさが蘇ってきた。高校の時にはわからなかったことも今は感ぜられて、たまらない気持ちになる。


ここに出てくる人物を表面では嗤いながら、自分の中ではどうしようもない気持ちになるのである。 こう思わせるところが太宰の天才的なところなのか。

ああ、読まなければよかった。と、思いながらも、この心地よい絶望感は何なのだろうか。

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